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自衛権?

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集団的自衛権容認についてですが、自分的には、今まで通りの茶番劇だと思って観ています。

と言うのは、これに限らず、今までの政府は国民が反対しとしても、どんな法案も通してきたからです。

なぜなら、今回の人類は、支配する側、支配される側の分離主義が基盤となっているからです。

支配する側は、その時、その瞬間、したい事をする、出来るのが支配者だと思っているから。

国民が反対しようが、デモで対抗しようが、それに屈すれば支配者では無くなるからです。


これは、紀元前の数万年前から、この基盤は変わっていません。


支配者側は、支配を目的として生きる糧を得て生きています。
で、支配される側は、支配される事で生きられると受け入れてしまいました。

そして、なにが善で、なにが悪などと言うことは、表面的な議論で、本質に触れた事はありません。
だから、数千数万年経っても、「戦争」が無くならないのです。

で、今回の自衛権は、次の戦争への準備だと、観るのが自分の見解です。

国際社会になり、インターネットで全世界が繋がり、情報が簡単に手に入るようになり、多くの人々があらゆる情報を知ることが出来ますが、そこに真実が無くても、真実される情報も多く存在します。

そして、その改ざんされた情報の流れを、利用することも、支配者達は学びました。

それは、過去の戦争の反響を、先進国と言われる国々のトップと思い込んでいる人達は、どう使うかを模索しています。


特に戦争をしかけて、負けた時の代償の重さをです。

で、次に、戦争をする時は、全世界に自分達の国は、こうこうこう言う理由で、こう言う法律を作り、それに則った上で戦いますと宣言することで、例え戦争で一時だけ降伏したり負けを認めたとしも、その後に相手国の不の道理を訴え、逆にその代償を請求できる為の備えをしているのだと思います。

実際に、いまでもそれを実行してる国もあります。

他国の領土を、自国の物とし、資源を我が物としようとする国のことは、先進国の人ならほとんど知らない人は居ないでしょうし、偽ブランドを平気で売りさばく国を知らない人もいません。
食べもに対しても、人体への影響を無視して、生産し輸出する国も有ります。
企業の技術の平気で盗みますね。

これは、奪われたり、有害な食料品を送られた国の国民や企業や従業員に重多大な損失を与えています。

で、その後にサイバー攻撃など、陰険な手段も平気でやってのけるのですから、ここで「楔」を打つ必要があると、先進国で表面的に友好関係にある国どうしは、威嚇する必要があると、考えるのだと思います。

日本は、集団的自衛権を作って、友好国との連合を表明して、アピールしていると言うのが、自分の見方です。



過去の支配者は、国民を無視し、国益と称して、自分の私腹を肥やす為に、戦争をしてきました。
この支配者には、政治家以上に、財閥(富豪)と呼ばれた人々の方がはるかに力を持っていた事を、殆どの人々のは、知らされていません。

そして、未だに、この人々によって、あらゆることが操作されています。

さらに、この図式は、国々だけでなく、会社という一見違う集団と思われるコミュ二ティーにも、影響を与えています。
企業戦争と言う少し古い言葉に感じますが、未だにこの戦争は続いていて、自社(己の利)の利益しか考えられないトップのいる会社は、平気で社員を路頭に迷わせていますし、
社内でも、自分だけは生き残ろうと、奮闘する人々が、会社を居心地の悪い場所にしています。

しかし、なぜこうなのか?
それは、人に不安を与えることが、支配する側に有利に働く事を、彼らは知っているからです。

金や雀の涙ほどの権力を与えて操作したり、神や仏を使い人々を支配して、それでも言う事を聞かない人々は殺害し、見せしめにして人々に恐怖を与えて操作してきました。

と、こういう書き方をすると、オカルトのように聞こえるかもしれませんが、これは紛れもない事実で真実です。

多くの人々は、物事の真実を観ようとしません。
なぜなら、真実を知ると、自分に責任が発生するからです。
今まで、正論を唱えて、報われなかった人々を、沢山見た来た人々は、善悪の基準は自分の利益を基準に選択しています。

でも、悪い事は分かっています、もちろん正しいことも理解しています。
ただ、権力に対抗して、打ちのめされた時の代償を知っているから、「見ざる言わざる聞かざる」がベストと本能的に考えてしまうのです。

これは、全ての人々のDNAに記憶されています。
だから、世界が平和だったことが無いのです。

でも、つかの間の平和は、感じる事が出来ます。
そらは、これらの事と柄と切離れている瞬間です。
何かに夢中になってる時だけは、混沌とした世界から解放され、本当の幸せに触れることが出来ます。

ただし、それに気が付いている人は、極々少数ですが、彼ら(彼女)だけが支配者の天敵です。
この今は少数ですが、増えつつあるのが、今の時代です。

支配者と戦わずして、勝利できるのは、彼らだけです。

なぜなら、彼達は支配者たちと精神的に繋がっていないからです。

彼らの考え、言葉、行動に一切反応しない事、それだけが唯一の武器です。

欲しいと言われれば与え、全てを差し出せる欲の無い精神が、最強の武器であると知る人は、本当に強い人だと、歴史も証明してきました。
でも、彼らは、それを言ません。
なぜなら、これらを理解できる人にしかこの武器は使えないからです。

本当の力に、お金や権力や物質は、関係無いんです。

なぜなら、それを信じている人(信じ込まされた)にか通用しないからです。

だから、子供や今でもジャングルや秘境に住むと言う部族には、契約書などただの紙です。

でも、大人になるにつれ、これらを常識と教えこませれば、契約に縛られます。

部族には、電気を与え、古い家電を与え、文明の力を見せることで無欲から切り離せます。

そして、部族の若者たちは、自然への崇拝は薄忘れ、文明社会に心奪われ、物欲に飲み込まれ、安い賃金で支配されるんです。



ただし、この様な時代は、もう長くは続きません。
近い未来に、これらを一掃する出来事が、起こります。


なぜなら、今、人々の精神は、崩壊寸前です。

自衛権の問題も、尖閣の問題も、その他世界中で起きている社会的な問題も、今まで考えられなかった様な身勝手な事件も全て予兆です。

全てが、明らかにされる世の中が来る前兆として、人間の精神に「不安」が充満し溢れているのは、意識への変革を助長しているのだと思います。

善悪の判断を無くして、真の自分を理解し、善だけを自然に選択できる為に、不安と言う負の感情を真剣に味わい、不要な感情だと理解し、手放す為のプロセスを通っているのだと思います。

自分の考えから言葉に出し、行動した結果を見た時、なぜ?と言う、「問」に気付くよう仕向けている「何か」が有ります。

この「何か」が、人の心の中で、働きかけています。



でも、この「何か」を、全人類が理解するには、人類はもう一度大きな痛みを味わなければ、解らないかもしれないのかな?と感じます。

できれば、避けたい痛みではありますが・・・。











人の思いやること知り、人の優しさを感じ感謝し、有るモノ全てを分かち合える事を、喜びだと感じられれば、戦争など本当に無意味なことだと感じられるのに・・・。




変化とは。

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悩みとは、何とかしたい、変わりたい、変化したい!と言う合図だ。

悩みのレベル(種類?)にもよるが、人生に対しての悩みは、覚醒への扉だ。

「今。何のために生きているのだろう?」

と言う事は、今と言う今生、人生に真剣に向き合っている姿勢だ。

日々の出来事を真剣に捉える姿勢が、人生を劇的に変える鍵になる。

全ての出来事は、自分の思考から発せられる、感情や思考と言う目に見ない波動は織りなす現実であり、
他者が介入していると言うのは、思い込みだから。

一見、介入しているかのように感じるのは、そう思い込みたいと言う幻想で、真剣に出来事に向き合うと、その幻想は溶けてなくなる。

特に、不の出来事に対しては、顕著な変化をもたらす。

不の出来事に対し、感情を抜きに向き合い、最善だと思う考えで言葉を発し、行動に移すことで、この変化を体感、体験できる。

特に損得勘定と言う、不の根源的考えを、放棄して自分と向き合う姿勢が、これを可能にする。

損得を無視して、相手を思いやる言葉や文字には、強烈なエネルギーがあり、劇的な変化へと繋がるが、
この強烈なエネルギーは、人や出来事を操作するようなチンケなエネルギーでは無いと言うことを、理解していないと、負の連鎖が始まる。

人生とは、個々に与えられた、素晴らしい体験を意味するもので、人に自慢したり、羨ましがられるようなモノは本当の人生ではない。

だが、自分が心地よいと思う物(物質)や出来事を手にしたり、手に入れる事を体験する事が悪いと言う事ではない。

この違いを、しっかり認識していれば、今と言う現状が一変する。

目標、目的に、明確な確信がもたらされ、それは素晴らしい道しるべと変わる。

自分と他人の隔てが無くなり、視野が広がった瞬間、悩みに助けられたと気付くかもしれない。

悩んでいたのは、この為だと感じる場合もある。

人生は、自分のした行為によって引き寄せられたモノの集合体だから、違うと感じた感覚、出来事を一つ一つ検証して、「今」に適応していく必要がある。

なぜ人生が変わらないかは、ここを理解していないからだ。

また、多くの人と出会い知り合い知り合うことは素晴らしい事だが、それは変化では無。
また。場所、職場などを変えることも、変化では無い。

自分の意識を変えることが、本当の変化だ。

相手を変えようとか、状況、場所を変えることが、変化では無い。

が、時と場合によっては、有効な時もあるが、変化と言うより、プロセスの変更に留まるだろう。

変化とは、意識の覚醒であり、それは「悩む」と言う一見マイナスと思われやすいポジティブな意識が生み出す調和であり真実への導きだから。




「思い込んだら」

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「思い込んだら」の強い人は、現状と理想のギャップが大きくなると、思考が過剰に働きだして現状と理想のギャップを埋める為に色々想像して、一人で思い悩んで、人によっては自滅行為に走る場合もあります。

で、こういう人は、この「不の思考」の創り出す妄想を確実に捉え、認識して過大妄想の中に入り込まない、取り込まれないようにすることが大切です。

で、意外と単純な方法で、この不のエネルギーを防御できます。
それは、その人の事を考えないだけです、一緒にいても必要事項だけに集中し、それ以外は干渉しないようにします。
すると、相手と自分を繋ぐ気の流れが変わり、相手から送られてきた気が自分を素通りますから、相手のイライラを受けなくてすみます。

これは現状(人生)に対しても同じで、現状への不満が不のエネルギーの根源ですから、不満に執着している自分に気付くように心がけて、それに気付いたらそこから離れるようにします。
呼吸に集中して、数秒間でも思考を止めると、冷静な自分が目を覚まします。

「無」の状態での精神の「強さ」は、状況や人(人の放つ波動)、出来事に左右されないでいられるといことですから、真の強さだと思います。

さらに人や物や自然に何の害も加えません。

例えば、スポーツ選手などトップアスリートなどを、精神が強い人と言って称賛しますが、勝者がいて敗者がいる世界ですから、敗者側の精神のストレスは相当なモノです。
そして、勝者は敗者から強いプレッシャーを受けながら、戦い続ける訳ですから、選手生命が短いのも当然と言えるでしょう。

これは、会社でも同じで、出世に固執した者同士の戦いは、アスリートと同様に精神と身体を蝕んで、足の引っ張り合いに汚職など会社に不利益な状況を生み出し、そのツケを自殺で精算する場合もあるほどです。


これを、自分の人生(現状)に対して行えば、どうなるでしょう?
自分で自分の足を引っ張るなど想像出る人は少ないので、最悪と思える出来事が連続的に起きているように感じて、その矛先を他者に向ければ、不の連鎖の始まりです。

ですから、自分の言いたい「強い精神」とは、アスリートとか勝ち組サラリーマン、権力者、芸能人・・・など、社会的地位の高いと言われる人々の「精神の強さ」とは違うと言う事です。

けして地位が高い人とアスリートや芸能人が良くないと言うのではないのです。(今の権力者と言われる人々は?ですが)

ただ、精神の強い普通の人々もいると言うか、普段一緒に生活してる中でも学べる人々はいるし、ベストセラーの本以外にも良い本は有ると言いたいだけです。



精神の修行に、瞑想は欠かせないモノだと思います。

でも、瞑想は難しいと思う人が多く、中々実践できないようです。

でも、瞑想は普段何気なくしている場合もあります。

目の前のことに集中している時、周りが気にならなくなる事は無いでしょうか?
で、この時、時間の進むスピードが速く感じたりしませんか?
「それ」が、完璧な瞑想状態と同じになります。
で、この状態を、造り出すために、「作務衣」と言う修行法が生まれました。
掃除や炊事など、日々の生活の作業に集中する修行です。
ただ、足を組んで目を閉じるだけが瞑想のスタイルではないのです。



で、精神を強くすると言うのは、いかに「無」の状態を維持できるかだと思います。

呼吸を整え気持ちを落ち着け、自分自身をよく観察することが重要だと、マスター達はいつの時代も言い続けてきたのだと思います。

浮んだ考えを観察し、言葉に注意をはらい、行動は慎重に行うという、一見めんどくさいと思える作業は、落ち着きのある人特有のモノだと思います。

これは演技できないほど、洗練されていますので、偽者はすぐにボロを出します。

なぜなら、考え方、言葉の使い方、行動に矛盾が見えてくるからです。

話は、もどりますが、心と身体は密接と先に書きましたが、心(思考)の放ったモノが身体に到着するには、時間がかかります。
そして、症状がでるまでに蓄積もされますので、症状が出るのは数か月後とか数年後に出る場合もあるので、なにが原因か探るのは困難です。
でも、自分の心の傾向を知る事ができれば、改善は容易です。

まずは、自分の心に耳を傾けて、よく心の声を聞くことが必要です。

必要な考えと、不要な考えを選別し、その時の最善を選択していこうと思えば、人生は必ず導きとなるヒントを与えてくれます。
でも、自己中心で利己的な考えしかできなければ、不の貯金を人生にし続けるわけですから、人生は厳しい結果を突き付けて来るでしょう。


と、なんだか解ったように書いていますが、毎日は利己的な自分と葛藤しながら反省の毎日です。
自分を観察しつつ、現状を受け入れ、物事に優劣をつけないで、選択は常に愛からなんて、中々できるものではありません。


それにしても、佛陀やキリスト、荘子、孔子、空海のようなマスター達や名もなきマスター達は、本当にすごいと思う。

欲を一掃した精神とは、いったいどんなモノなのか?

ほんの少しでも良いから体験したいものだ。



                   
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地球の想い。

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人生は、面白い。


目の前に現われる人々は、自分に足りないモノ。
今生に必要な試練や問題を、突き付けてくる。


今生の生き方を、嫌っている限り、これは永遠に続くのだろうか?


と言う、疑問は絶えないが・・・


多分、続くのだろう。


本当に、ありがたい事だが、この過酷な状況を生み出しているのが、
自分自身だと言う事を、認識するのに、この人生では、短いような気がする。




愛とか、思いやりと言う言葉の持つ力は、真の自分自身を認識しない限り、
理解できないのかもしれないと、強く感じる。



人の意識は、地球の想いに影響を受けると言う人もいるが、ここ数年は、それを強く感じる。




人の意識に、強い作用のある何かが、動き出したのだろうか・・・?

「仏陀の観たもの」 第七章 慈悲のこころを読んで。 

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「仏陀の観たもの」
 
  著 鎌田茂雄

第七章 慈悲のこころを読んで。



お布施の話。
 

ある人が法事をした時、お布施はどのくらい包んだらよいでしょうか、と至道無難(江戸時代初期の臨済宗の僧侶)に質問した人がいた。
                                             

すると

「三銭布施するひともいないし、三銭の布施を受け取る坊主もいないであろうと答えたと言う。」

質問した人は、この答えがよく分からず、いったいどう言う事かと聞くと。

「天下に誰が三銭惜しむ人あらんや。たとえば千貫・満貫の布施も、三銭の出す心にてせよ、ということなり。」

と、答えたと言う。(因みに千貫は今の価値で300万円らしいです。)


これは、千貫・満貫も三銭と同じ気持ちで出し惜しみしない心でせよと言うことだが、こんなこと凡人には
できないとこの本で鎌田氏は解説する。

そして、千貫満貫の布施をした人は、大金を布施したと言う優越感に縛られ、ふんぞり返り。
された坊主も同じく、その大金の重さに縛られ、大金を布施した者を優遇するだろう。


そこで、無難は布施を受けとる坊主に対して、

「請くる坊主、満貫の布施も、三銭ごとくおもはざれば、直ちに其の吊りあやまる。後世はちくしやうとなる事疑いなし。」

と、言ったそうだ。


この「吊り」とは、「甘言で吊る」という意味の「吊り」で、「大金で人の心を吊る」利己心の強い人の行いを言う。

で。この「吊り」で吊られた坊主も利己心の強い遇者であり、人に分け隔てを作る人間だと言うことだ。

それは、三銭の布施をした檀家と満貫の布施をした檀家を区別し差別するということ。

無難は、そういう心持ではいけないと説いている。
坊主は、皆に同じく接することを学んだ人だと、普通に思うだろう。
しかし、この言葉は、江戸の初期の言葉なのだ、昔の人の方が信心深いと思いがちだが、江戸初期でもこのような僧侶がいたと言う事になる証拠だと思う。

そして現代は、残念なことに相当数の坊主がこれにあたるのではないだろうか?

で、なぜ。私が、これほど坊主を、批判するかと言うと、
今。この時だからこそ必要な存在である、出家者という本業の人間が、本業で力を発揮していないのが不満だからだ。
人の苦を知ることを、己のこととして、慈悲の気持ちを伝える役割と言う本道を、ないがしろにして、私腹を重視しているのは、出家した者の仕業では無い。

供養の本当の意味も知らず、ただツラツラと経を読むのが、坊主の仕事ではないのだ。

人々の苦難を、肌身で感じ、人生に迷い漂う人々を、仏の力を借りて説き導くと言う本業をないがしろにして、出家者といえるのか?



更に、坊主だけでなく、先生と呼ばれる人々全般も同じくで、学校から病院、政治家達は、人々を平等に見る眼を養ってから就いて欲しい。


TV道徳の授業を増やすだのと言う前に、このように先人が残した素晴らしい言葉や考えを理解できる人を育てることが肝心で、
こういうモノに興味も関心も無い人々が選考するテキストから、真の道徳心は育てられない。


      「自尊心が強く利己的で、権力主義で金好きな先生達は、もうこれ以上必要ない。」


と。声を大にして言うと、この国では、頭がおかしい詭弁者と言われるのはなぜだろう?













PS
鎌田さんの書く仏教書?は、本当に解りやすく明解で、宗教感が無い。
鎌田氏本人も維摩経講和言っているが、
「煩悩即菩薩を哲学者や仏教学者が説明したのでは、まことにつまらぬものになる。」
確かにそうだと思う。
自分達だけ解っていればよいのなら、本として出す必要もない。
また、これらの本は、人生経験など、生きてきた中から生まれた考え方や物事を捉える偏見の無い目も重要だと思う。
卓上のなんとかと言うが、本や資料からでは読み解けないのが、真実の教えだ。
名言や功績を遺した人々は、人をよく観察したからこそ人の心に響く言葉や行動が出来たのだと思う。
自分の功績を残したい、知識を披露し称賛されたいというエゴが根本に有るモノには、この手の輝きは無い。
だからこそ光り輝く鎌田さんの本には、人の心を動かす力が宿っている。
特に、「維摩経講和」や「観音経講和」は、是非。日本の坊主さん達のテキストとして欲しく思う、で。何度も読んで理解し日々の精進に役立てて欲しい。

自分は、鎌田さんの本を読んで、自分自身の中に巣食う多くのエゴに気付かされた。
佛教と宗教の違いも、理解することで、寺院を見る目も変わったが、そこに巣食う坊さんを見る目が厳しくなった。
以前も書いたが、寺の裏手の自宅?に、高級車が車庫に入っていたり、子供達の遊具が散乱している個人?の寺や、
有名な寺の土産物を管理している坊さんを見ると、何とも言えないモヤモヤ感を感じた。
盆暮れに、忙しそうに檀家を回り、あやしい経を読んで数万円の布施をあたりまえに貰って帰る坊さん。
説法もせず、プライバシーを主張し、用事の無い時には寺に来ないで欲しいと言う寺まである。
試験や資格で、位?が上がるシステムは、「もはや仏教では無いのではないかと思うのだが・・・」と心底呆れる。

己の為だけにする修行は真の修行では無い。
自己満足の修行は、エゴ強き証だ。
と、言う以前の問題になっている日本の宗教は、今後どうなるのだろう?

エゴの無い目(心)を養い、人を知り、自然を感じられなければ、人々を導く説法は出来ない。
その前に、しっかりと坊主達を、真の佛陀達の教えを説き、指導する存在の育成が必要なのかもしれないのだが、
坊さんを派遣すると言う異例の現代に、仏教を重んじる真の佛教を唱える宗教指導者が存在しているのだろうか・・・?




至道無難(しどう むなん、慶長8年(1603年) - 延宝4年8月19日(1676年9月26日))は江戸時代初期の臨済宗の僧侶。
本姓は大神氏、俗姓は相川。幼名は刑部太郎、通称は治太郎、源右衛門。俗諱は親明(ちかあき)。
号に却外、道時等。

白隠慧鶴の法祖父に当たることで知られる。関ヶ原宿で本陣を営み、50歳前後で出家、
寺を構えることを厭い、庵を営んで過ごした。また法語を説く際には好んで道歌を用いた。
                                                  ※ウィキぺディアより

「恩」の話

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人に「恩」を売ったり、押し付ける人は、不安の多い人。


最近、「恩」について話したのだが、この「恩」と言う言葉はどうやって生まれたのだろう?

で、ウィキで少し調べると、


「恩は、すでに後漢時代の許慎の『説文解字』において、「恵(めぐみ)」という意味だと解説されていた。」

と、出ていた。

でも、「恩を売る」「恩に着る」と言うあまり良い意味に聞こえない言葉として使われることが多い。

と、自分は思う。

人によっては、「恩を売る」「恩に着る」は当たり前のことだと言うかもしれないが、「恩」と言う言葉が「恵み」を語源としているのなら、
恵みの行為は、無償ですること捉えて、売るだの着るなんて言葉とくっつけないで欲しい。


で、この「恩」を売る行為が、昨今の事件に強く影響していると思う。

自分の場合は、この「恩を売る」「恩に着る」を知るのは、親から始まった。

「親に面倒見てもらっている分際で・・・」

10代の頃よく言われた言葉である。
仕事も、していない世間知らずの子供に、よく言えたものだと今になって心の底から感心する。

この言葉で、私の親は、私を意のままにしようとしたのだが、その前に私は、親から離れることが出来、その策略は失敗に終わって良かったと思う。

なぜなら、もしかすると、その親の放つ「恩」の不のエネルギーの重さに潰され、精神が崩壊し発狂していたかもしれないからだ。


というのも、人がこの「恩」を使う時に込める、エネルギーはかなり強い「念」のエネルギーが作用するからだ。
特に執着の強い人が、使うと「恩」のエネルギーは相手に位置までもべったりと張り付き離れない。

更に、この執着質の人は、周囲の人間関係も利用して、「売った恩」「着せた恩」の回収に躍起になる。

「私は、あんなことも、こんなこともしたあげたのに・・・」がそうだ。

そして、これは永遠に続く、いくら回収しても「私は、あんなことも、こんなこともしたあげたのに・・・」これを繰り返し言うことで、「恩」は継続し続ける。

この執着系の人は、不安な気持ちが強いので、ちょっとしたことでも、不安を増幅してなんでもオーバーに考え、大げさに周りの人に風潮するので、
見分けがつきやすいのだが、中には言葉が巧みだ見分けられない場合も有るので注意が必要だ。


そして、このて人は、人の放つ感情ので、人を見分ける。
この感情のエネルギーは、とてもダイレクトで伝わりやすいので、いくら下手に出ていても、見下していれば解るし。
逆に、威張って自分を強く見せても、虚勢は見抜かれる。


だから、相手を怖がれば、そのエネルギーも見抜かれ、利用される。


人の弱さにつけ込む人は、人の弱さを知っている、なぜなら自分の弱い部分を理解しているから、人の弱さを見抜けるのだ。
自分の弱さを隠すために、自分より弱い人間を探しているから、アンテナは敏感で獲物を捕らえる為に常に周りに目を光らせる。


最初は、何気ない優しい人に見えるのも特徴で、巧みに人の心に入り込んで来る。

だが、逆に他人が心に入り込むのをを嫌う。

なぜなら自分がいかに、心が狭く、不安と恐怖に怯えているかばれるのが怖いのと、利己的で欲張りで身勝手な部分を曝されたくないから、「自尊心」が高く、自分を誰よりも大切に思っているので、自分の不の部分の暴露を恐れる。

また、自分の所有物えの執着も激しく、人もモノも同じように扱う。

「私の友達、俺の知り合い」と言うように「の」に力を込めて、人もモノと同じように扱うのだ。





では、こう人に会った場合どうすれば良いのか。




        「なにも感じない事。」



何もに感じない人に、こういう人は弱い。
何を言っても、何をしても感じない人には、この人々の不のエネルギーは無に等しい。
何も感じないとは、感情のエネルギーを跳ね返さないことである。

感情のエネルギーを跳ね返さないことは、相手を良いとか、悪いとか判断し、レッテルを張らないこと。

評価もしなければ批判もしないで、ただ、その人を観る。
普通の人は、ひとの感情のエネルギーに反応する、批判のエネルギーには批判で返すし、良い評価をされればそれなりに評価もくれるが、それらを一切やめることなのだが・・・。


それには、日々、自分の感情の変化を観察し、コントロールしなければならない。
起きてから寝るまで、常に観察しつづける精神の鍛練は、苦行をいしても身に付かない。
なぜなら、日々の生活の中に、その人その人の課題が有るのだから、奥深い山で瞑想にふけっても、何も変わらない。

それを佛陀は悟り、苦行をやめて、菩提樹で目覚めた。

で、これら自身の感情をコントロールできる人々を佛陀とかマスターと呼ぶのではないのだろうか?



              

            END

僧侶とは 宗教とは (改)

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時々、TVで坊さんが説法らしきことを、つらつらと語っているのを見ますが、日本の坊さんは、今の世の中の「苦」を理解していると思えない。(全ての坊さんとは言わないが)

現代の坊さんは、寺の運営を主とし、本来の御勤めを勘違いしている。

寺を守るとは、良い言い方だが、この不況に檀家に負担をかけてまで寺を新築したり、「書」と称しを数十万で販売するなど、とても徳の高い人間のする事とは思えない。

時折流れるTVの説法も、聞いていてなんともチグハグな内容で、真剣に経を読んでいるのかと思える。

佛陀は、荒行から悟りは開けないと悟ったのに、荒行の苦しさをTV自慢げに話す坊さん。

空海を語るが、空海の本意に触れていない。

偶像崇拝の危険性を、紀元前から言い続けた人々は、今の時代をどう見ているのだろうか?

人々の苦を、肌で感じた佛陀達は、慈悲の心で経を読んだが、今は銭の為に経を読み「仕事」とと称す。

真のお勤めに金銭は発生しないはずだが、料金設定がある現代のお勤め。

本来は、お布施という庶民の負担が少ないモノだったはずなのに、なぜか経を読む数で料金が違うのだろう?

戒名も本来の意に反したモノだし、金額が数万円から数百万とは恐れ入る。(その使い道は???)

坊さんの苦行より庶民のこなす仕事の方が、あきらかに修行に近いし、苦行は己の自己満足だとなぜ気づかないのだろうか?

本当に、世の為に祈り経を読んで、世界の平和を祈願してるのかと疑いたい。
更に、先日観たTVに出演していた坊主達には、逆に慈悲の気持ちがわいたくらいだ。

坊主は人の上に立たないのが本性なのに、宗派の違いに格差をつけ、上からモノを言う態度や試験だ資格などと戯けた姿を、過去の佛陀達はどう感じるのだろう?

人々の苦難とは、心の目で観て初めて感じられるモノ。
心の眼の意味を知らない人間の言葉は、人の心に響くものが無い。

そして、苦難とは、その本人にしか乗り越えられないモノ。

心眼の開いた人は、それを見抜き、時に優しく、時に厳しく、時に何もしない。

真の坊主さんは、各お経から仏の真意を読み解き、あらゆる人々に慈悲の心で支えるすべを学ぶ。

なぜなら各お経には、その術が書かれているから。

でも、その真意を読み解ける人は、心眼を開けた人に限られる。

真の教えは、己の心に宿る仏心と言う存在に気付くようにできていて、それに気付いた人にしか、理解できない仕組みになっている。

だから、昔からある、貴い教えは、内容が類似しているし、行先も同じです。

観音経では、自力で苦難を消滅し、真の自分に気付くよう説かれた感じがします。

維摩経では、在家者(出家していない一般の仏教信者)の維摩さんが、仏に悟りを開かせ、真の修行とは普段の生活のなかにあると説き、徳の高さとは知識の量ではないと仏達に説く。

で。この経は、過去に仏教が本質を見失い、本来の姿から離れ権力者に利用され始めた頃に書かれたのないかと推察する。

佛陀達は、崇拝という行為を好ましく思わなかった。
そして、偶像崇拝と言う人々の心を縛る行為に心を痛めた。

しかし、権力者達は、崇拝を好んだ、なぜなら崇拝されることが権力の源だと勘違いしていたからだ。
だが、強欲な権力者は崇拝に値しないことを庶民は見抜いたので、神仏の魅力を用いて、これを利用した。
そして、一部の僧侶は、それを利用し、権力、地位、金品に執着したのだが、今でもそれは変わらない。


人は、五感で感じるモノに縛られ、さらには心まで周りの状況に翻弄されている。

それを、般若心経では、「無限耳鼻舌身意 」(むげんにびぜつしんに)

眼・耳・鼻・舌・身体・心と言う感覚も器官もないと説いて、人々に気付きを与えようとしている。

また、仏教の「無」であるとは、感じるなと言うことではなく、有る事と無いことを区別しないということだと、説きます。

ただ、有るモノは有る、無いモノは無いと素直な心の目で見る。
思い考える思考の入る隙間を与えないのが「無」です。

思考は、この「無」に恐怖や脅威を感じて、不安と恐怖を植えつけ支配しようとします。

そして、他者との比較を好み、善悪や序列と言うレッテルを張って、批判と評価で遊ぶのが好きです。

でも、「無」という真の心は、善悪、序列、批判、比較を一切しません。ただ、有るがまま観ているだけです。

草木は、寒暖に愚痴をこぼしません。動物は、状況を受け入れ対処します。人間は、自然や動物に災害だの被害だのと身勝手な言い分を、自然に押し付け、同類で破壊に略奪から殺戮を散々繰り返し、数千年?数万年?と同じことを繰り返しています。

また、身近な所に目を向ければ隣人とのトラブルは、見栄の張りあい。
親兄弟と争いは親が優劣を教え(見せた)結果で、夫婦間の疑心は、金銭や異性問題と相場があります。

TVで連日流れているのに、これらの事件が絶えないのは、人と分離している感じているからです。

真の科学者は、この世の物質は全て同じものからできている事をつきとめました。

佛教は我々の魂は、元は一つで、個々と言う形態をとって、自分と言う個を体験しているのだと教えてくれました。

が。しかし、人は他者を区別し、他者との境を作ります。なぜなら「個」と言う存在から「全体」という形態へ戻ることが、人
類の進化のプロセスだからだと思いますが、そろそろ、この考えにも限界が来ているような気がします。


ちょっと、突飛ですが、全ての存在で造りあげたのが、この世界だと気付くと、あらゆる隔てが無くなり、自分と他人や自然に動物への感じ方が変わると思います。


真の教えとは、エゴからの離脱を説いたモノで、私利私欲に満ちた我々への最高の贈り物なのに・・・。

五輪書を読んで。

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五輪書、重々しいこのタイトルに怖気づいて、中々手が出なかった。

が。やっと、この難解そうな本を読むことにした。

宮本武蔵の驚異の遺作を・・・。(鎌田茂雄氏の五輪書)


といっても、まだ前半の数十ページなのだが、この前半でやられた。

で、この思いの消えないうちに、ここまでの感想を書くことにする。









「神仏は貴し、神仏をたのまず。」


この意外なはじまりに、魂を感じた。


人は、困った時の神頼みは、なんの信念もなくする。


しかし、神仏とは何かに興味は無い。


神仏とは、目に見えない存在だ。
だが、極めた人々は、感覚で感じる。


人間は、基本的に五感に反応して、生きている。

視覚、聴覚、味覚、嗅覚、感触だ。


だが、もう一つ、六番目の霊感がある。

霊感は、色々と言い方で言われているので、解りづらく信憑性に問題がると思う人が多いが、確実に存在する感覚だ。

波動を感じるのも霊感の一部だし、超能力も霊感の別名だ。

この捉えどころのない感覚が、第六感で、言い方など何でもいいのだが、人は呼び名にこだわる。

特に目に見えず、聞こえず、嗅げず、味わえず、触れないモノに、恐怖や違和感、不安感を感じる。

にもかかわらず、神仏には好意的であるが、反対に恐怖心をぬぐえない。


「罰(ばち」が、それである。


が、基本的には、好意を抱いて、神仏に手を合わせ、祈願し、悲願する。


だが、この祈願、悲願をを真っ向から、否定しつつ尊ぶ武蔵の姿勢は正しいと思う。


人は、神仏に頼まずとも、生きられるし、望みも叶えられることを、武蔵のような人々は、気づいているからだ。


シェイクスピアは、「天と地の間にはお前の哲学 では思いも寄らない出来事がまだまだあるぞ。」と言ったという。

これは、第六の感覚が開いたからこそ、感じ取った言葉だと思う。

そしてシェイクスピアのアイディアとは、脳が創り出すモノではなく、能が「空」の世界から感じ取ったモノだと言う事を、表した言葉と感じる。

インスピレーションとは、異空間の智慧のエネルギーを感じとる能力だと思う。

そして、具現化する意欲が、現実に存在するよう変換する。

だが、それは、己の力では無いと言う謙虚な姿勢に左右されるのだと思う。

実在しない神仏を尊ぶ心を持ちつつ、感謝する姿勢で精進していくことで、悟りの境地に辿り着く。

経を読んだり、苦行をする事では、悟りは開けないと、多くの聖者は伝えている。

一人、奥深い山奥で、修行しても人との関わりなくして、悟りは開けないし、人の心も開かない。

騒音雑多な世界にいるから、人を知る事ができる。

人は人との関わりを持つ事で、己を知る。

だが、本当の自分を観ることが出来なければ、何も変わらないし、変われない。



そして、神仏は全ての存在の中に宿り備わっている。


魂がそれだ。


どんな存在にも、魂は存在する。

魂は、ミクロでマクロだから、個であったり個で無かったりする。

有であり無だ。

だから、尊ぶが頼らなくても良いのだ。

頼らなくても、想うことが、そうなるから。


想った時点で、そのプロセスが始まるから。


全ては、想いが現実化する。

創造するエネルギーが、波動を具現化させ実体化したり、出来事ととして現れる。


宇宙は、人も神仏も自然も動物も植物も空間も全て宇宙で有り、全ての存在の想いも宇宙だ。

良いも悪いも宇宙。

神も悪魔も宇宙。


それを、五輪書の冒頭に、持ってきた武蔵は凄いと思った。


だがこれは、壮絶な戦闘を繰り返した、武蔵だから気付いたのか?


いや。では無いとも思う。


だれでも気付く事が出来るから、武蔵は書き残したのだと思う。


壮絶な時代を生きたからこそ書き残したのだと思う。


少しでも早く、多くの人々が、気付けるように・・・。

観音経講和 2

観音経講和 2


鎌田さんの講和本の魅力は、佛教学者のように堅物で難解な言葉を並べ、より難解な代物にしないところである。
で、こちらが維摩経で書かれている一説である。

写真 (1)
※写真をクリックすると、大きな画面になります。

と、書かれているように、ただお経を、頭の中だけで「解く」のではなく、そのお経の真意を「説く」のが、鎌田さんの講和本である。
更に、現代社会にてらし合わせた解説もしてくれるのが、本当にありがたい。

それが、講話本の書く節々に折り込まれている。
で、こちらが、観音経のなかで書かれているものだ。
写真 1

と、言う感じで、現代社会の現状を観音経でもって説いて行こうと言うのが凄い。

そして、この章のおわりを、こんな風に〆ている。
(巨海に漂う・・・から)
写真 2

と、言う様に、先に書いた「憎しみ、恨み、貪り、怒り」は、己の内に巣くっていると、説いていくだが、人の言葉を引用して書いているわけでは無く、「まず実行せよ」の言葉どうり、経験から生まれた言葉、文章だという事が見て取れる。
ただ単に、お経を訳すのではなく、その意味や文字の根拠を、自信の人生から学び説いていく姿勢に共感できる。

そして、この魂から湧き出た言葉は、読む人の精神に作用すると感じる。
が、しかし、真剣に読もう、聞こう、取り入れようという思いが無ければ、ただ読んだだけで終わる。

だから、仏学者ならまだしも、本業の僧侶ならば、本当に身を引き締めて読んで、日々の精進、説法に活用して欲しいにだが・・・。

更に、これだけは言いたい。
この不況が続く状況で、貧困の差が如実に表れている時代に、立派な本堂を建て、檀家に負担をかけたり、本堂だけでなく自分達の住まいまで、立派なお寺が多く見受けられる。
更に、車庫があり、そこには高級車が並んでいる寺など吐いて捨てるほど存在する。(今に始まった事ではない。)

盆暮れ葬式に檀家を回り、「経を唱え数万円です。」と経に格付けをしての商売。
で、日々の御勤めである、朝晩の読経は聞こえない寺は数知れず、あげくに本堂に、用が無い時はあまり来ないで欲しいと言うお寺もある。
で、その理由は、「プライバシー」がなくなるということだ。
寺内には、子供の遊具や、その他もろもろの生活器具が散乱しているのに、本堂や祠、池や庭園?は、荒れているのはなぜだろう?

また、ある有名な観光地のお寺では、土産物を販売する店舗が隣接されていて、修行僧らしき若い坊さんが土産物の棚卸を、真剣にしていた光景には、心底ガッカリして、参拝をやめにした。


と、これだけ酷評しておいて、言うのもなんだが、けして自分はお寺が嫌いなわけではない。
その逆で、大好きなのだが、こういうお寺があまりにも多すぎて残念でならないだけだ。
もちろん、真剣に修行をして、世に貢献している僧侶もいるのは承知しているが、その比率に問題があると感じる。
これは、今また新たな問題勃発中の政治家などと同じかもしれないが、僧侶は、その仲間からいち早く抜け出して欲しいものである。

兎に角、鎌田さんの般若心経講話・維摩経講話・観音経講話は、出家してようが在家だろうが、本当に為になる書物だと思う。



                         

観音経講和

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観音経。

言わずと知れた人気のお経だが、なぜ人気があるのか知りたくなり調べていると、
やはり鎌田茂雄さんが、講和本を書かれていた。

で、読んでみて納得。

この鎌田茂雄さんの各講和本は、般若心経も維摩経も、本当に解りやすく書かれている。(しかも楽しい)

殆どの人が、お経は呪文かなんかだと、思っていると思うが、実はこの世の真実を、伝える為の書物?伝記?ではないかと感じる。

観音様からの真の教えを、伝える為に、目に見えない観音との会話が、観音経である。

だが、この真の教えを、宗教になると、歪められ、信者獲得の為の教えとして使われる。(他の宗教でも)

更に、まともにこの経と向き合っている僧侶は、本当に少ないのが悲しい。

法事でも、読経されるが、まともに唱えられる(読んでいる)僧侶を自分はを見たと言うか聞いた事が無い。

で、思う。

いったいこの国の僧侶たちは、何を修行しているのだろうか?

本来?本当は?そもそも?僧侶と言うのは、職業では無いと思うので、宗教と仏教の真の在り方を、もう一度見直して欲しいと感じる。

金も物の権力も格式だの上だの下だのと言ったモノからの縛りから、解き放たれた存在が僧侶ではないと思うだけれど・・・。


と、話はそれたが、お経は難解だと思う。

でも、鎌田茂雄さんのように、真に経に向き合い、職業としての仏教徒では無く、真実の仏教=仏の教えを説いてくれる人がいるのは、本当にありがたい。

難解な部分もあるのは確かだが、読んで損の無い本だと思う。

まぁ、損得で読む本ではないのだけれど・・・。



延命十句観音経
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あらかじめご了承下さい。

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