FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「仏陀の観たもの」 第七章 慈悲のこころを読んで。 

                         292_20130817203445857.jpg
                           

「仏陀の観たもの」
 
  著 鎌田茂雄

第七章 慈悲のこころを読んで。



お布施の話。
 

ある人が法事をした時、お布施はどのくらい包んだらよいでしょうか、と至道無難(江戸時代初期の臨済宗の僧侶)に質問した人がいた。
                                             

すると

「三銭布施するひともいないし、三銭の布施を受け取る坊主もいないであろうと答えたと言う。」

質問した人は、この答えがよく分からず、いったいどう言う事かと聞くと。

「天下に誰が三銭惜しむ人あらんや。たとえば千貫・満貫の布施も、三銭の出す心にてせよ、ということなり。」

と、答えたと言う。(因みに千貫は今の価値で300万円らしいです。)


これは、千貫・満貫も三銭と同じ気持ちで出し惜しみしない心でせよと言うことだが、こんなこと凡人には
できないとこの本で鎌田氏は解説する。

そして、千貫満貫の布施をした人は、大金を布施したと言う優越感に縛られ、ふんぞり返り。
された坊主も同じく、その大金の重さに縛られ、大金を布施した者を優遇するだろう。


そこで、無難は布施を受けとる坊主に対して、

「請くる坊主、満貫の布施も、三銭ごとくおもはざれば、直ちに其の吊りあやまる。後世はちくしやうとなる事疑いなし。」

と、言ったそうだ。


この「吊り」とは、「甘言で吊る」という意味の「吊り」で、「大金で人の心を吊る」利己心の強い人の行いを言う。

で。この「吊り」で吊られた坊主も利己心の強い遇者であり、人に分け隔てを作る人間だと言うことだ。

それは、三銭の布施をした檀家と満貫の布施をした檀家を区別し差別するということ。

無難は、そういう心持ではいけないと説いている。
坊主は、皆に同じく接することを学んだ人だと、普通に思うだろう。
しかし、この言葉は、江戸の初期の言葉なのだ、昔の人の方が信心深いと思いがちだが、江戸初期でもこのような僧侶がいたと言う事になる証拠だと思う。

そして現代は、残念なことに相当数の坊主がこれにあたるのではないだろうか?

で、なぜ。私が、これほど坊主を、批判するかと言うと、
今。この時だからこそ必要な存在である、出家者という本業の人間が、本業で力を発揮していないのが不満だからだ。
人の苦を知ることを、己のこととして、慈悲の気持ちを伝える役割と言う本道を、ないがしろにして、私腹を重視しているのは、出家した者の仕業では無い。

供養の本当の意味も知らず、ただツラツラと経を読むのが、坊主の仕事ではないのだ。

人々の苦難を、肌身で感じ、人生に迷い漂う人々を、仏の力を借りて説き導くと言う本業をないがしろにして、出家者といえるのか?



更に、坊主だけでなく、先生と呼ばれる人々全般も同じくで、学校から病院、政治家達は、人々を平等に見る眼を養ってから就いて欲しい。


TV道徳の授業を増やすだのと言う前に、このように先人が残した素晴らしい言葉や考えを理解できる人を育てることが肝心で、
こういうモノに興味も関心も無い人々が選考するテキストから、真の道徳心は育てられない。


      「自尊心が強く利己的で、権力主義で金好きな先生達は、もうこれ以上必要ない。」


と。声を大にして言うと、この国では、頭がおかしい詭弁者と言われるのはなぜだろう?













PS
鎌田さんの書く仏教書?は、本当に解りやすく明解で、宗教感が無い。
鎌田氏本人も維摩経講和言っているが、
「煩悩即菩薩を哲学者や仏教学者が説明したのでは、まことにつまらぬものになる。」
確かにそうだと思う。
自分達だけ解っていればよいのなら、本として出す必要もない。
また、これらの本は、人生経験など、生きてきた中から生まれた考え方や物事を捉える偏見の無い目も重要だと思う。
卓上のなんとかと言うが、本や資料からでは読み解けないのが、真実の教えだ。
名言や功績を遺した人々は、人をよく観察したからこそ人の心に響く言葉や行動が出来たのだと思う。
自分の功績を残したい、知識を披露し称賛されたいというエゴが根本に有るモノには、この手の輝きは無い。
だからこそ光り輝く鎌田さんの本には、人の心を動かす力が宿っている。
特に、「維摩経講和」や「観音経講和」は、是非。日本の坊主さん達のテキストとして欲しく思う、で。何度も読んで理解し日々の精進に役立てて欲しい。

自分は、鎌田さんの本を読んで、自分自身の中に巣食う多くのエゴに気付かされた。
佛教と宗教の違いも、理解することで、寺院を見る目も変わったが、そこに巣食う坊さんを見る目が厳しくなった。
以前も書いたが、寺の裏手の自宅?に、高級車が車庫に入っていたり、子供達の遊具が散乱している個人?の寺や、
有名な寺の土産物を管理している坊さんを見ると、何とも言えないモヤモヤ感を感じた。
盆暮れに、忙しそうに檀家を回り、あやしい経を読んで数万円の布施をあたりまえに貰って帰る坊さん。
説法もせず、プライバシーを主張し、用事の無い時には寺に来ないで欲しいと言う寺まである。
試験や資格で、位?が上がるシステムは、「もはや仏教では無いのではないかと思うのだが・・・」と心底呆れる。

己の為だけにする修行は真の修行では無い。
自己満足の修行は、エゴ強き証だ。
と、言う以前の問題になっている日本の宗教は、今後どうなるのだろう?

エゴの無い目(心)を養い、人を知り、自然を感じられなければ、人々を導く説法は出来ない。
その前に、しっかりと坊主達を、真の佛陀達の教えを説き、指導する存在の育成が必要なのかもしれないのだが、
坊さんを派遣すると言う異例の現代に、仏教を重んじる真の佛教を唱える宗教指導者が存在しているのだろうか・・・?




至道無難(しどう むなん、慶長8年(1603年) - 延宝4年8月19日(1676年9月26日))は江戸時代初期の臨済宗の僧侶。
本姓は大神氏、俗姓は相川。幼名は刑部太郎、通称は治太郎、源右衛門。俗諱は親明(ちかあき)。
号に却外、道時等。

白隠慧鶴の法祖父に当たることで知られる。関ヶ原宿で本陣を営み、50歳前後で出家、
寺を構えることを厭い、庵を営んで過ごした。また法語を説く際には好んで道歌を用いた。
                                                  ※ウィキぺディアより
スポンサーサイト

「恩」の話

055_20140413094103b7a.jpg


人に「恩」を売ったり、押し付ける人は、不安の多い人。


最近、「恩」について話したのだが、この「恩」と言う言葉はどうやって生まれたのだろう?

で、ウィキで少し調べると、


「恩は、すでに後漢時代の許慎の『説文解字』において、「恵(めぐみ)」という意味だと解説されていた。」

と、出ていた。

でも、「恩を売る」「恩に着る」と言うあまり良い意味に聞こえない言葉として使われることが多い。

と、自分は思う。

人によっては、「恩を売る」「恩に着る」は当たり前のことだと言うかもしれないが、「恩」と言う言葉が「恵み」を語源としているのなら、
恵みの行為は、無償ですること捉えて、売るだの着るなんて言葉とくっつけないで欲しい。


で、この「恩」を売る行為が、昨今の事件に強く影響していると思う。

自分の場合は、この「恩を売る」「恩に着る」を知るのは、親から始まった。

「親に面倒見てもらっている分際で・・・」

10代の頃よく言われた言葉である。
仕事も、していない世間知らずの子供に、よく言えたものだと今になって心の底から感心する。

この言葉で、私の親は、私を意のままにしようとしたのだが、その前に私は、親から離れることが出来、その策略は失敗に終わって良かったと思う。

なぜなら、もしかすると、その親の放つ「恩」の不のエネルギーの重さに潰され、精神が崩壊し発狂していたかもしれないからだ。


というのも、人がこの「恩」を使う時に込める、エネルギーはかなり強い「念」のエネルギーが作用するからだ。
特に執着の強い人が、使うと「恩」のエネルギーは相手に位置までもべったりと張り付き離れない。

更に、この執着質の人は、周囲の人間関係も利用して、「売った恩」「着せた恩」の回収に躍起になる。

「私は、あんなことも、こんなこともしたあげたのに・・・」がそうだ。

そして、これは永遠に続く、いくら回収しても「私は、あんなことも、こんなこともしたあげたのに・・・」これを繰り返し言うことで、「恩」は継続し続ける。

この執着系の人は、不安な気持ちが強いので、ちょっとしたことでも、不安を増幅してなんでもオーバーに考え、大げさに周りの人に風潮するので、
見分けがつきやすいのだが、中には言葉が巧みだ見分けられない場合も有るので注意が必要だ。


そして、このて人は、人の放つ感情ので、人を見分ける。
この感情のエネルギーは、とてもダイレクトで伝わりやすいので、いくら下手に出ていても、見下していれば解るし。
逆に、威張って自分を強く見せても、虚勢は見抜かれる。


だから、相手を怖がれば、そのエネルギーも見抜かれ、利用される。


人の弱さにつけ込む人は、人の弱さを知っている、なぜなら自分の弱い部分を理解しているから、人の弱さを見抜けるのだ。
自分の弱さを隠すために、自分より弱い人間を探しているから、アンテナは敏感で獲物を捕らえる為に常に周りに目を光らせる。


最初は、何気ない優しい人に見えるのも特徴で、巧みに人の心に入り込んで来る。

だが、逆に他人が心に入り込むのをを嫌う。

なぜなら自分がいかに、心が狭く、不安と恐怖に怯えているかばれるのが怖いのと、利己的で欲張りで身勝手な部分を曝されたくないから、「自尊心」が高く、自分を誰よりも大切に思っているので、自分の不の部分の暴露を恐れる。

また、自分の所有物えの執着も激しく、人もモノも同じように扱う。

「私の友達、俺の知り合い」と言うように「の」に力を込めて、人もモノと同じように扱うのだ。





では、こう人に会った場合どうすれば良いのか。




        「なにも感じない事。」



何もに感じない人に、こういう人は弱い。
何を言っても、何をしても感じない人には、この人々の不のエネルギーは無に等しい。
何も感じないとは、感情のエネルギーを跳ね返さないことである。

感情のエネルギーを跳ね返さないことは、相手を良いとか、悪いとか判断し、レッテルを張らないこと。

評価もしなければ批判もしないで、ただ、その人を観る。
普通の人は、ひとの感情のエネルギーに反応する、批判のエネルギーには批判で返すし、良い評価をされればそれなりに評価もくれるが、それらを一切やめることなのだが・・・。


それには、日々、自分の感情の変化を観察し、コントロールしなければならない。
起きてから寝るまで、常に観察しつづける精神の鍛練は、苦行をいしても身に付かない。
なぜなら、日々の生活の中に、その人その人の課題が有るのだから、奥深い山で瞑想にふけっても、何も変わらない。

それを佛陀は悟り、苦行をやめて、菩提樹で目覚めた。

で、これら自身の感情をコントロールできる人々を佛陀とかマスターと呼ぶのではないのだろうか?



              

            END
プロフィール

kodama

Author:kodama
思った事を、感じたままに書いていますので、言葉に語弊を感じるかもしれませんが、
あらかじめご了承下さい。

※書いた記事は、途中で編集することが、多々あります(・_・;)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。