FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

僧侶とは 宗教とは (改)

368_20130901155252c92.jpg


時々、TVで坊さんが説法らしきことを、つらつらと語っているのを見ますが、日本の坊さんは、今の世の中の「苦」を理解していると思えない。(全ての坊さんとは言わないが)

現代の坊さんは、寺の運営を主とし、本来の御勤めを勘違いしている。

寺を守るとは、良い言い方だが、この不況に檀家に負担をかけてまで寺を新築したり、「書」と称しを数十万で販売するなど、とても徳の高い人間のする事とは思えない。

時折流れるTVの説法も、聞いていてなんともチグハグな内容で、真剣に経を読んでいるのかと思える。

佛陀は、荒行から悟りは開けないと悟ったのに、荒行の苦しさをTV自慢げに話す坊さん。

空海を語るが、空海の本意に触れていない。

偶像崇拝の危険性を、紀元前から言い続けた人々は、今の時代をどう見ているのだろうか?

人々の苦を、肌で感じた佛陀達は、慈悲の心で経を読んだが、今は銭の為に経を読み「仕事」とと称す。

真のお勤めに金銭は発生しないはずだが、料金設定がある現代のお勤め。

本来は、お布施という庶民の負担が少ないモノだったはずなのに、なぜか経を読む数で料金が違うのだろう?

戒名も本来の意に反したモノだし、金額が数万円から数百万とは恐れ入る。(その使い道は???)

坊さんの苦行より庶民のこなす仕事の方が、あきらかに修行に近いし、苦行は己の自己満足だとなぜ気づかないのだろうか?

本当に、世の為に祈り経を読んで、世界の平和を祈願してるのかと疑いたい。
更に、先日観たTVに出演していた坊主達には、逆に慈悲の気持ちがわいたくらいだ。

坊主は人の上に立たないのが本性なのに、宗派の違いに格差をつけ、上からモノを言う態度や試験だ資格などと戯けた姿を、過去の佛陀達はどう感じるのだろう?

人々の苦難とは、心の目で観て初めて感じられるモノ。
心の眼の意味を知らない人間の言葉は、人の心に響くものが無い。

そして、苦難とは、その本人にしか乗り越えられないモノ。

心眼の開いた人は、それを見抜き、時に優しく、時に厳しく、時に何もしない。

真の坊主さんは、各お経から仏の真意を読み解き、あらゆる人々に慈悲の心で支えるすべを学ぶ。

なぜなら各お経には、その術が書かれているから。

でも、その真意を読み解ける人は、心眼を開けた人に限られる。

真の教えは、己の心に宿る仏心と言う存在に気付くようにできていて、それに気付いた人にしか、理解できない仕組みになっている。

だから、昔からある、貴い教えは、内容が類似しているし、行先も同じです。

観音経では、自力で苦難を消滅し、真の自分に気付くよう説かれた感じがします。

維摩経では、在家者(出家していない一般の仏教信者)の維摩さんが、仏に悟りを開かせ、真の修行とは普段の生活のなかにあると説き、徳の高さとは知識の量ではないと仏達に説く。

で。この経は、過去に仏教が本質を見失い、本来の姿から離れ権力者に利用され始めた頃に書かれたのないかと推察する。

佛陀達は、崇拝という行為を好ましく思わなかった。
そして、偶像崇拝と言う人々の心を縛る行為に心を痛めた。

しかし、権力者達は、崇拝を好んだ、なぜなら崇拝されることが権力の源だと勘違いしていたからだ。
だが、強欲な権力者は崇拝に値しないことを庶民は見抜いたので、神仏の魅力を用いて、これを利用した。
そして、一部の僧侶は、それを利用し、権力、地位、金品に執着したのだが、今でもそれは変わらない。


人は、五感で感じるモノに縛られ、さらには心まで周りの状況に翻弄されている。

それを、般若心経では、「無限耳鼻舌身意 」(むげんにびぜつしんに)

眼・耳・鼻・舌・身体・心と言う感覚も器官もないと説いて、人々に気付きを与えようとしている。

また、仏教の「無」であるとは、感じるなと言うことではなく、有る事と無いことを区別しないということだと、説きます。

ただ、有るモノは有る、無いモノは無いと素直な心の目で見る。
思い考える思考の入る隙間を与えないのが「無」です。

思考は、この「無」に恐怖や脅威を感じて、不安と恐怖を植えつけ支配しようとします。

そして、他者との比較を好み、善悪や序列と言うレッテルを張って、批判と評価で遊ぶのが好きです。

でも、「無」という真の心は、善悪、序列、批判、比較を一切しません。ただ、有るがまま観ているだけです。

草木は、寒暖に愚痴をこぼしません。動物は、状況を受け入れ対処します。人間は、自然や動物に災害だの被害だのと身勝手な言い分を、自然に押し付け、同類で破壊に略奪から殺戮を散々繰り返し、数千年?数万年?と同じことを繰り返しています。

また、身近な所に目を向ければ隣人とのトラブルは、見栄の張りあい。
親兄弟と争いは親が優劣を教え(見せた)結果で、夫婦間の疑心は、金銭や異性問題と相場があります。

TVで連日流れているのに、これらの事件が絶えないのは、人と分離している感じているからです。

真の科学者は、この世の物質は全て同じものからできている事をつきとめました。

佛教は我々の魂は、元は一つで、個々と言う形態をとって、自分と言う個を体験しているのだと教えてくれました。

が。しかし、人は他者を区別し、他者との境を作ります。なぜなら「個」と言う存在から「全体」という形態へ戻ることが、人
類の進化のプロセスだからだと思いますが、そろそろ、この考えにも限界が来ているような気がします。


ちょっと、突飛ですが、全ての存在で造りあげたのが、この世界だと気付くと、あらゆる隔てが無くなり、自分と他人や自然に動物への感じ方が変わると思います。


真の教えとは、エゴからの離脱を説いたモノで、私利私欲に満ちた我々への最高の贈り物なのに・・・。
スポンサーサイト
プロフィール

kodama

Author:kodama
思った事を、感じたままに書いていますので、言葉に語弊を感じるかもしれませんが、
あらかじめご了承下さい。

※書いた記事は、途中で編集することが、多々あります(・_・;)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。