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「権力」と「願望成就」

今回は、「権力」と「願望成就」についてです。

この二つの言葉は切っても切れない感じです。

ちょっと、難解な入り方になりますが、最後にはなるほどになると思いますので、
我慢して読んでみて下さい。


では。行きます・・・

027.jpg





人は、個々に個別の「波動」を持っています。

そして、その波動は、男女や年齢、職業、役職、階級など様々な状況、状態で変化していき、
その状況が人の「波動」に「色」を付けていきます。

例えば、先生と言われる人は、先生特有の波動を身にまといますが、
これは本人の「意識」以外に周りの人間の「意識」も関係します。

それは、「この人は○○先生だ。」

と言う、「認識」です。

この「認識」が全ての波動に色を付けます。

しかし、現状は「認識」だけで感じている訳ではありません。

ほとんど人は「認識」以外の「五感」視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚を頼りに物や出来事など様々な日常に感じる事を判断、判別しています。

でも、これら五感は「認識」に更に上塗りされた感覚であり、本来は「意識」がベースとなって観ているはずなんですが、現代は「意識」が目覚めていない人が多いので、仕方ありません。

で、この第六番目の感覚とされる「意識」には霊感や超感覚であるとか超能力などの様々な能力があります。
しかもこの「第六感」誰にでも標準装備されています。

だから、この本来の自分とも言える「意識」を使って「意識的」に物事を観るようにすることで、真実が見えてきます。

これは、言いかえると、「五感」や「周りの人から教え込まれた情報=認識」で、決めつけをし、
判断してきた知識や常識を「見直す」という事です。

例えば。先に書いた「先生」です。

皆さんの「先生」のイメージとして。

先生は「偉い」「賢い」など、なんとも目では捉えにくい「大きな力」が宿っているように感じます。
それは、先生と言う言葉が持つ波動と、先生と言う言葉が多種多様に使われていて、
そのほとんどが「「権力」」をベースとして使われて来たからだと思います。

で。これら先生の種類?としては

政治家、官僚、学校、医療、専門家、科学者などなど様々です。

そして、ほぼすべてのジャンルで先生と言う言葉は「権力」を有しています。

しかし、意識を使って、その本質を観ると、けしてこの「権力」に左右されることなく見ることが出来ます。

例えば、政治家を意識的に観てみると、ほとんどが「個人の資産と権力を欲しがる中年か老人」としか映りません。
でも、これでも色んな間違った知識を植えつけられた人の見方です。
それは、「資産」とか「権力」と言う言葉を使っているからです。

では。これを、まだ知識を刷り込まれていない子供の目線で見れば、

単純に「皆。ただのオジサン」です。

だから、権力の及ばない子供には、いくら悪徳な権力者も、
その力の及ばないことを承知しているので、権力を振るう事をしません。


また、道端で凛とした雰囲気の老人を見るとどう感じるでしょうか

「この人は・・・なんだか威厳があるから・・・なんかの先生だったのかな?」

と、感じるかもしれません。

でも、これは視覚から判断した事で、本質(事実)とは違う場合があります。

この老人は、腰痛の為に腰にコルセットをまいているので、姿勢が良く「凛」として見えるだけで、
定年後の余生の日課の散歩をしているだけかもしれません。

だから、五感でなく「意識」を使ってモノを観るようにすることで、
モノの波動(本質)を感じる事が出来ようになります。
波動で物事を感じるようになると、違和感を感じるようになります。
更に、この場合視覚から得た情報に対する違和感で、本質に近づけます。
更に、創造力と意識を使って物事を観るようにすると良いです。

で。本質的に観るには、余分な知識を捨てなければなりません。
刷り込まれた概念は、時として真実から離れます。


では、話を少し戻して、今回の先生の例えです。

全ての先生は「偉い」「賢い」と言う反射的に思い込んでいる誤解です。

いや「誤解」と言うか「誤解釈」ですね。
たいがいは親に、先生は「偉いんだから言う事聞かないとだめよ」と言われ
刷り込まれた、概念が生んだ解釈です。

これは、無意識的または無条件的に受け入れた結果、相手を無意識で五感で解釈し受け入れたと言う意味です。

だから、相手の本質が解るまで、五感だけを信用せずしっかりと意識してモノを見すえなければならいと、賢人たちは教えてきたんです。

代表的な教えが「般若心経」この経には、この五感の誤解がや感情の誤認などが解かれています。


そして、もう一つ、この「先生」と言う言葉の力に加担しているのが、
先生と呼ばれる人々の強い「意思」です。
特に権力を欲しがる人間は、本当に「貪欲」です。
でも、この「貪欲」は、権力を欲しがる人間とって「純粋」なモノで、
とてもパワフルになれる要素です。
だから、権力主義者?は、自分の思いが成就しやすく、多少迷惑な人でも自分の意思を成し遂げられるんです。
で、そうなると無我夢中で自分の意のままに権力を振るうわけです。

そして、この権力とは、太古の昔から権力者達が、庶民に植えつけてきたモノで、
未だ人々はこの魔力に気付かないで操られていますが、近年はだいぶこの力も弱まってきたので、
権力者達も手法を変えてきました。

それは、少しだけ庶民に力を与えるという事です。
これは、昔は権力者の批判はご法度で、国によっては未だに「死刑」を課せられますが、
この日本では、政治や政治家、行政を批判する事が許されました。
でも、権力者側の本質、人々を操作し権力だけは確保しています。


これは、年配者が、政治は変わらないとか、選挙は無意味とか、一見批判しているように見えても、
「あきらめさせる」ことを植えつけた証です。

そして、この「あきらめ」は、とても効果があります。
それは、「無意識」な人には簡単に受け入れられるからです。
トラブルも少なく、同意している人が多いのも理由です。
皆、人と違う事に恐怖を感じているからです。


で、ここに来てやっと、今回のお題の「権力」の本質ですね。
それは権力者達の「権力」に対する「意思」「信念」です。

これが本当に強いんです。

だから、置いた権力者は、いつまでも居座り支離滅裂な言葉を言っては、「社会」や「会社」を混乱に招きます。

しかも、数千年にわたってです。

しかし、ここ最近は少し事情が変化してきていると感じます。
波動に敏感な人々が多くなり、意識的にモノを観ることが出来るようになった事が理由の一つです。
これは、権力者達の波動の弱まりが原因と言う事と、人々の意識の変化もあります。

この人々の変化とは

「意識」によって物事は変えられると言う「信念」に気付いたと言う事です。
 権力者は、ある意味無意識的に、これらを理解している

で。これに気付いた人達が、かなり増えてきている。
物事を意識的にすることで、変化の訪れが早まることを経験し、更に物事の変化が加速します。
純粋に「思う」=「思念」する事で、「願望」や「希望」が叶うという事です。

でも、この事実を受け入れずに

「そんな事あるわけ無い。」

と言う事を「思念」している人々には、その人が「思念」することが加速してやって来ます。
例えば、「こうなった欲しくない」「それは嫌だ!」と言う、幸福とは反対な思いを、
「思念」しますし、否定的な思考が強いで、口で否定することが現実になりやすいと言う事です。
気の毒な思いがしてきますが、本人の希望ですから仕方ありません。


でも、この「権力者」と「非権力者」両者の共通点は、「思考」思い考えると言う「力」です。
そして、どちらも「成就」しています。
この「事実」を見つめる事が出来れば、おのずと自分の「思」に対する思いが変わり、
「無意識」から「意識」へと変化させれるのではないでしょうか・・・



で、最後に、先生について少し・・・

「先生」とは、偉いと言う存在ではなく、人々が幸せに成る為の指針や方法を教えることが出来、
更に生徒からもしっかり学べる人でると思う。

これは、自分の好きな言葉で、

「人は皆。先生であり、生徒である」

と、言うこの短い言葉にしっかりおさめられている。


本来、人には誰が上で誰が下が無いと言う事です。

自然(地球)の法則に誰が上で誰が下が無いように・・・




以上が「権力」と「願望成就」でした。


         
           おしまい。
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思いやり。

DSCN0270.jpg


今回は「思いやり」についてです。

とても良い言葉ですが、しかし!

本当の意味で、この「思いやり」と言う奴を、知っている人が少ないように感じます。

という事で、今回は「思いやり」ちょっと難しいけど文字にて解説しようと思います。



では、いきます。





「思いやり」とは、見返りの無い「思い」や「考え」から生まれる「言葉」と「行動」だと、
自分は解釈しています。

しかし、周りの人々から感じる「思いやり」は真逆の事が多く感じます。

例えば仕事場などでですが

「俺は、何時もここまでやってやるのに、○○はこれ以上はやらないんだよ。」
「○○は、俺の思いやりが分かってないよ。ほんとに・・・」

とか

「○○さんは、何々大卒なのに、こんな簡単な経理の計算も出来ないのよ、信じられるぅ~・・・。」

など、言わなければ、ささやかですが「小さな思いやり」になるのに、言葉にすることで「悪口」になっています。

「思いやり」とは、人に気付かれようが、気付こうが関係ありません。
例え気付かれなくても、物事がスムーズに流れて、その場の人々が気持ち良く時を過ごせれば良い事です。
また、気付いても、気付いた人は、そこに「気付き」を感じて、それが「学び」へと変化するかもしれません。
兎に角。どちらに転んでも、良い状況や状態になるのが「思いやり」だと思います。

そして、大切なのは「損得勘定」を入れない事。
これを、少し変化させると「損得感情」となると思います。

やってやってるから、感謝しろ!
負けたくないから、更に上乗せした行動で挑戦や挑発!
また、嫉妬などの歪んだ感情が相手を「敵視」させ自分の能力をひけらかすように、
思考させ言葉にし行動でアピールと言うお粗末な結果に気付かなければ、真の思いやりを知ることはできない。

親子関係でも、ここまで育ててやったのは・・・
学校へ行かせてやった・・・

会社でも、教えたのは俺だ・・・
研修までやらせたのに・・・

などなど、一見当たり前と感じる(?)やりとりも解釈が変わると、010.jpg

なんとも身勝手な言葉に感じます。
でもって、こう言う会話は本当に多い。

で、過去に何度も繰り返し、この同じ問題・出来事などなどを繰り返し言っているのに、
日々の会話に度々登場するのは何故なのか?

「自分の行為、考えを認めてほしい?」とか「その出来事の決着がついていないから、そろそろ俺の意見を認めて、俺をうやまえ、尊べ、感謝しろ!」
と言うことになる思うんです。
でも、これは、認めてもらう事に執着して、思いやりと言う行為を、完全に忘れています。
で。結局は「感謝」されないから、納得いかないから悪口や愚痴になって行く。


また。思いやり的な言葉で、更に自分の高感度UPに変化させるのが↓

「ここまで陰でしてやっても、分からない奴はいるんだよ」

みたなことを、人が周りにいるのを確認して大声で言う人々。

ホントォ~に不思議です。



「思いやり」とは、自分がした行為・行動に相手が、気付く気付かないは関係ないと先に書きましたが、
それにプラスして、他者の成長の邪魔をしないように、なんでも手を出さないことも必要です。DSCF8282 - コピー

また、仕事場でも家庭内でも、これぐらい分かるだろ、やって当然、同僚だから、親子だからと言う
勝手な思い込み(あまえ)がお互いの関係を悪化あせている可能性もあります。
いくら長い付き合いでも、人は個々に「こだわり」みたいなものがあり、
何故か「こんなこともできないの?」と言うことがある。
これは、何らかの理由で心(エゴ)が強く作用している場合がある
多分、この幼少期に与えられたトラウマの作用と思う。
例えば、小さい頃に親から、うるさく片付けを指図され、その都度叱られたりしていると、
その頃の嫌な思い出のせいで、成人してから片付けができなく(したくない)なるような感じだ。

だから、相手が出来ていない事を、すぐに指摘するのではなく、
出来るまで見まもってほしい。
また、成人してからは、相手のバックグラウンドも視てあげるといいのだが、
これは、ほとんどの人が無理だと思う・・・
だから自分がしてほしいことは、ちゃんと相手に思いやりを込めて言えば良い。

兎に角。上から目線、命令、強制的に言うのでは、相手のエゴを目覚めさせ、トラブルの原因になるからだ。
だから人には思いやりを持って接することを心掛けで、
まったく見返りの無い心で接することで、本当の「思いやり」に気付けば、相手の成長に貢献したことになり、少しづつ人間関係にも変化が現れると思います。

だから、相手に対し、素直で率直に相手としっかり向き合った付き合いをすれば、
自然に「思いやり」は生れ、現代人の抱える人間関係のヒビにも潤いをもたらすような気がします。

           おしまい。




追記

「思いやり」とは、相手の立場に立って考え行動することで、相手の成長を止めるこはせず、押し売り、押し付けもないし、この「思いやり」と言う行為によって、相手を自分の「裏の本意」に誘導したり「支配」したりしもしない。
もちろん、見返りを求めないし、利益などは無視した思考・言動・行動が元になる。
が、。その結果の「おまけ」又は「ご褒美」として、
精神的な喜び又は、金銭や物品などが、もらえる場合がある・・・かも。
ただし、書くまでもないことだが、絶対に期待はしてはいけない。048.jpg



3.11

昨日は、浜松市の五社神社と鴨江寺にて、3.11で被災し亡くなられた御霊の供養をお願いしてきました。
神の力と仏の力を借りて御霊供養祈願。
もしまだ、この世に残した家族への思いで天の光を目指せない御霊に導きの光が届きますように・・・合掌。


五社神社の拝殿です。高貴な波動を感じる神社です。
076.jpg079.jpg

鳥居。浜松の産土である五社神社は、諏訪神社と並び祀られている。080.jpg


鴨江寺の弁財天。
065.jpg

自分は、ここに来ると龍神を感じるのですが、この日は大蛇の姿が視えました。

鴨江寺のご本尊は、観音菩薩です。
真言は「オン・アロリキャ・ソワカ」
他の真言に比べ比較的短く覚えやすいので、是非お参りの時は唱えてみると良いです。
このお寺は、本殿の右裏手に弘法大師様が祀られ、その左裏手には自分の大好きな役行者様に前鬼・後鬼が従え祀られています。
鴨江役行者DSCF7950

正論。

今回は、「正論」についてです。


これは、他人の話を聞いていて気付いたのですが。

自分自身が、正しいと思って喋っている正論も、第三者の耳で聞いていると、

「なんとも自分勝手な事を言っているなぁ」

と、感じるようになりました。

で。そんな時は、他者の中に自分を見ると言う感じにもなります(-_-;)

まぁ。それはさておき(・_・;)


正論とは「正しい考え」が「正しい言動」で発せられ「正しい行い(行動)」へと移行していきます。

でも。現実では、この正論が、その場・その時・その状況で変化しているように感じることが多々みうけられます。

で、こうなると、この世の中は、沢山の正論で成り立っているんだと思わされることだらけです。

例えば、「宗教戦争」は、お互いが崇めている神が真実と言う正論から戦うんですよね。
で、相手の思想は間違っている、間違った神を崇めているから抹殺するんだと言う事で、
ミサイルを撃ち込むわけです。

更に政治もそうですよね。
国に利益がもたらせるなら、正論なんて無視の法案がまかりとおり。
汚職をしている政治家・政党が、平気な顔で対立する政党を正論で批判。
で。そのあげくに陰で官僚や役所の職員までも国民の「お金」に手を出す始末です。

一番「正論」に近いはずの人々がこうですから、一般人なら良いのか?

と、言いわけありませんよね。(本来は・・・これは正論でしょ?)

まぁ。この辺の話はおいといて・・・(・_・;)


「正論」についてです(^_^;)


で、ここまで書いて気付くのは「正論」というものが、いかにあいまいと言う事です。


本来は、全ての人に共通な「正論」でなくてはいけないと思いますが、
人の数だけ「正論」があるようにも見えてきます(-_-;)

でも、これでは、何が正しくて、何が正しくないのかが、本当に解らなくなります。


で、この人の数だけある「正論」は、国家間の大きな問題から、会社、家族、夫婦、兄弟、友人・・・・・
と、広がり数えきれないほどの問題が生じて、正論のこじれからの事件が後を絶たない訳ですが、
例え事件にはならなくても人間関係には大きく、影響は多大です!


例えば↓こんな感じです

「自分は、この考えが「正しい」と思うから、あの人もきっと賛成・賛同してくれる!」
「自分は、この考えが「楽しい」と思うから、あの人もきっと賛成・賛同してくれる!」
「自分は、この考えが「正しく」て「楽しい」と思うから、あの人もきっと賛成・賛同してくれる!」

と、これらが融合?していき、相手の意見など聞く前に「この自身の正論に間違いなし」と決定し、
この自分本位の正論を相手にブン投げて、その反応に対し容赦なしの「「喜怒哀楽」で返す訳です。

賛成なら「喜楽(きらく)」に喜び楽しげな笑顔で答え。
反論ならその「怒哀(どあい)」に応じて怒ったり、相手の理解のなさを、上から目線で哀れんだりするんです。

ホントに身勝手です。

だから、「正論」と言うモノの持つ特性・特徴をよく理解していないと、
この前の記事で書いた「人生で起こるトラブルの・・・原因?」へと繋がる訳です。





で。本当に世の中には身勝手な人は多く。
相手の都合をまったく考慮せず、自分の「考え」を平気で「言葉」に出し「実行」に移します。


更に、その身勝手差がどれほど他人を傷つけようとも気づきもしません。
それどころか、反論されたと感じれば、容赦なく攻撃に転じます。
こう言う「包容力」を持ち合わせない「正論者」は、残念なことに異常多く、
自分の正論はOKで、相手の反論は徹底的にNOです。
自分が正しくある為には、相手の反論は許せないんです。


これは、以前も書きましたが、「自分が正しくいたい」と言うエゴが、こういう変則的思考を造りだします。


自分が、正しくいありたいが為に、自分と違う意見は許せない。
例え相手の意見が「正論」であっても・・・


だから、これに気づけない人は、人間関係の問題を常に抱える事になり、
どんなに新しい関係を築いても同じ結果を、自分自身で招くことになるんです。

これは、人間関係の問題(トラブル)は、いかに相手が悪く見えても、
自分自身の物事への反応や捉え方を客観視できなければ、
状況が変わることが難しいかもしれません。

例えば。


職場を変えても。
妻・夫を変えても。
友達を変えても。
コミュニティーを変えても。
集まり、集いを変えても。

必ず。今までと同じ結果で待っています。


いくら場所を変えて、人を変えて、以前とは違う自分を演出しようとも、根本、根底から変わらなければ、
仮面がはがれるのは時間の問題です。
だから、自分の人生に起こる全ての出来事に変化は起こらず、
また。「同じ問題?」となるはずです。

他者批判より、自己管理と観察です。

人の言動・行動は、よ~く見えるが、自分自身は見えにくい。
そして、見えない「思考」は、感情を抜きにして「観察」によって見えて来るんです。


で、ちゃんと観察ができると、他者の思考・本質が視えてきます。

更に、ほんの少しでも今までの人生の過去の出来事から学ぼうとするならば、
必ず小さな変化が大きな変化へと変貌していきます。


で。人生。運命を変えたいのなら、周りの状況や他人を変えようとせず、
自分自身を変える事に重点をおくのが、やはりベストだと考えます。
          (これは、大勢のスピ系の指導者達が言ってますね・・・(^_^;))


自分が、変われば人生も変わらざるえないから。
自分が、変われば相手も変わらざるえないから。
自分が、換われば物事、出来事の変わらざるえないから。

自分が、変われば、その変化に「宇宙」が応えざるえないから。



と、言うのが私の人生、運命を変える(運命の扉を開く)事に対する「正論」です(^_^;)


         END



※せい‐ろん【正論】 道理にかなった正しい意見や議論。

プロフィール

kodama

Author:kodama
思った事を、感じたままに書いていますので、言葉に語弊を感じるかもしれませんが、
あらかじめご了承下さい。

※書いた記事は、途中で編集することが、多々あります(・_・;)

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